顔面騎乗を体験しよう-男性向け(1)

このサイトに届くアンケートを見ていると、女性に顔面騎乗されたいという男性が思いのほか多いことがよくわかります。私と同じ願望を抱く人々が世の中に多数存在することを知り、とても心強く感じています。

今でこそ私は、「顔面騎乗」に対する自分の欲求を肯定し、その願望を成就すべく邁進しているわけですが、かつての私はそうではありませんでした。
「女性に顔に座られたいなんて、こんな奇妙キテレツでヘンテコリンな願望の持ち主はきっとオレだけだぁ〜!いや絶対そうに違いないっ!」と、ひとり思い悩んで苦しんできたのです。
そのことを思えば、まさに隔世の感があります。

私が学生の頃は、インターネットのように誰もが発言できるオープンなメディアはありませんでしたので、自分以外の男性が抱くフェティッシュな欲望など知る由もありませんでした。そのため顔面騎乗願望は私固有の変態性であると捉え、人知れず悩んでいたのです。誰にも相談することなく、むしろ周囲の人達に覚られないよう細心の注意を払いながら、密かに顔面騎乗関係の本やビデオなどを探し求めていました。

その当時、顔面騎乗の映像や写真、文章などが掲載されているものといえば、SM関係しかありませんでしたので、私はもっぱらM男モノのビデオや雑誌を見ていました。
そして、顔面騎乗の美しい映像・画像に魅せられ、癒やされながらも、一方で陰鬱かつグロテスクな「女王様と奴隷」的表現に触れるたびに、暗澹たる気分にさせられてきたのです。
「顔面騎乗願望とは、こんな唾棄すべき世界と隣り合わせのものなのか。。」と思い知らされた私は、顔面騎乗の虜になっている自分への罪悪感を深めていきました。こんなアブノーマルな欲望は口が裂けても人には言えない、一生隠し通さなければならない、などと悲壮な決意を固めていたのです。

そして、社会人になった20代の私は、後ろめたさを感じつつも、顔面騎乗願望に抗しきれず、SMクラブ通いを始めることになりました。
しかしながらレポート(「顔騎不遇時代」参照)にも書いた通り、最初のうちは何度も何度もクラブでのプレイに失望させられていました。おかげでというべきか、しまいには「女王様と奴隷的状況抜きでは、顔面騎乗願望を満たすことなど所詮できないのだ」という絶望的な無力感に苛まれたのです。(ちょっと大げさ?)

ところが1996年頃からのインターネットの急速な普及に伴って、世界中に顔面騎乗を愛する人々が存在するという情報が共有されるようになり、「顔面騎乗愛好者は自分だけではない」ということを私も知ることができました。
加えてほぼ同時期に、私はクラブAと出会い、ご挨拶とかバカみたいなSM的シチュエーション抜きで顔面騎乗を体験できるようになったのです。
その頃から、私は自分の願望に対するやましさが薄れ、ようやく素直に顔面騎乗体験を楽しむことができるようになってきました。今振り返ると長い長い道のりだったような気がします。

私自身はそのような紆余曲折を経て、現在顔面騎乗を実践するようになりました。このような、ある意味屈折した過去は、私のメンタリティに少なからず影響を及ぼし、現在の私の顔面騎乗に対するスタンスを形作っているように思います。
まるで何か吹っ切れたように顔面騎乗体験を求め、出会った女性には臆することなく自らの願望を伝えるようになり、挙句の果てには自ら顔面騎乗サイトを立ち上げて、自分の願望を臆面もなく披露するほどまでに調子づいてしまいました。
もしかするとこれは、自分の抑圧された過去を否定するための作法なのかもしれません。

自分では、顔面騎乗体験に際しては、リスク回避のためあらゆる状況を冷静に判断し、合理的な行動をとっているつもりでも、その行動力の源泉は「願望を成就しなければ癒やされない」という、合理性を越えた強い渇望のような気がしてなりません。

と、まあ告白めいた自己分析を長々と披露してきたわけですが、要するに言いたかったことは、これまで私がそれなりに多くの顔面騎乗体験を重ねてこられたのは、単に渇きを癒すことへの衝動に突き動かされてきたからに過ぎない、ということなのです。
私には、パートナーを獲得する特別な秘訣があるわけでもなければ、女性を調達する特別な手段を有しているわけでもありません。そんなこと常識的に考えれば至極当然のことと思われます。

しかしながら、このサイトをご覧になっている男性の中には、私がなにやら特別な秘訣や手段を用いて、次から次へと女性に出会っている、と妙な誤解をしている人が、極めて少数ながらも、どうやらいるようなのです。

<以下 次号に続きます>


Happy Facesitting Column21